自省日記

私の内面観察帳。特に意味は無い。

他人が怖い①

私は、生まれてから(一部の期間を除き)他人との関わりを極力避けてきた人間だ。幼稚園の時は友達が1人もいた記憶がない。小学校~高1くらいまでは、一応話す人はいたが、本当の意味での「友達」とは思えなかったし多分向こうも同様の感想だろう。高2~現在までは、一応話す人間すらいない。(家族とは普通に話すし、一応「親友」だと思っている奴は片手で数えられる程度はいるが。)

 

とにかく、他人に話しかけるのに躊躇してしまう。普通の人達は何のためらいもなく他人に話しかけることができるが、残念ながら私はそういうことができない。話しかけられた側がどういう気持ちになってどういう返答をしてくるのかいちいち気にしてしまう。例えば、大学の教務の窓口で何かの書類を貰うという簡単な出来事に対してさえだ。どういうことをどういう順序で話すか考えて(そんなのは適当で良いんだけど)現実逃避をし、話しかけるのを先送りにしてしまう。他人に話かけるには、勇気という名のエネルギーが必要だ。一般人はそのエネルギー消費が限りなくゼロに近くて済むけれど、私は常人の少なくとも5倍くらいはエネルギーを消費してしまう気がする。

 

あと逆の立場の話だが、急に話かけられるのも嫌いだ。特に、何かの作業に没頭しているときに話しかけられると、混じりけのない殺意が芽生える。作業していない時でも、人間と会話するのにはエネルギー(ここでは勇気的な意味ではなく、返答を頭フル回転で考えるという意味で)が必要なのだから、なるべく話かけないで欲しい。事務的な連絡とかどうしても必須の連絡だけは仕方ないけど、それもLINEとかの文字媒体で全て済ませてほしい。会話というのは私に言わせれば早押しクイズであり、相当な頭の回転を要求されるゲームである。文字媒体なら、制限時間無しでじっくりとクイズに挑むことができる。

 

ただ、私も好きでこういう性質の人間になっている訳ではない。慎重に話すことは社会において重要なスキルではあるが、慎重すぎるのも考え物だ。こういう風に、他人にあまり話しかけない人間には、周囲の人間も段々と声を掛けなくなる。そうなると事態は悲惨だ。大学や会社において、明文化されていない重要な情報が手に入らなくなったり、他者のちょっとした意地悪で嫌な気分になったりする。確かに、一番根本的な所では大人数で群れて会話をすることのどこが楽しいんだとは思っている。実際、クソクソ&クソだと思っている(個人的な意見です)。ただ、この資本主義社会において経済的利益を追求するとなると、群れていた(群れるふりをした)方が得な場合が結構ある。

 

また、他人が大人数で群れていると、起こさなくてよい敵愾心を募らせてしまいがちだ。他人のことを深く知ろうともせずに、その人の考えや行動に全面的に否定的になってしまう。(例えば、公共の場でいちゃつくカップルに対する「死ね死ね死ね」という感情です。本当は2人ともイエス・キリスト並みの聖人かもしれない。)あと、自分の考えとかアイデアに対して過剰な自信を持ってしまうことにもなるので良くない。まるで自分だけが世界の真理を知ったような気分になって、躁状態になり寝られず徹夜、生活習慣が崩壊するというのが私のパターンです。

 

書いていて疲れる。
まだまだ書きたいことはあるが、ちょっと長くなりすぎる気がするので①②…のn本立てにしようと思う。多分割とすぐに②書くと思います。次回もよろしくお願いします。